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          八坂神社 疫神社 神泉苑 月鉾
          鯉山 屏風祭 崇道神社 など
             京 都 祇 園 祭           
1.はじめに   関西で夏の祭と言えば、まずは祇園祭が想い浮かぶでしょう。  東京の神田祭、大阪の天神祭と並ぶ日本三大祭のひとつと言われています。 20090725kyotomap.jpg   三大祭の中では祇園祭がもっと  も歴史が古く、その内容と規模も  抜きんでています。   今回は祇園祭発祥の歴史を探っ  て散策してみました。   訪問時期は7月14日、山鉾巡  行の3日前でした。   左図の赤が今回訪問した場所  です。青は本稿で少しだけ触れ  る場所です。   2.山鉾   祇園祭の正式名は「祇園御霊会」(ぎおんごりょうえ)だそうです。  怨霊(おんりょう)や疫病の退散を祈願するものですが、この辺りの歴史は  後ほど眺めてみることにして、まずは少し山鉾を見物してみましょう。   7月17日の山鉾巡行に向けて、10日頃から各町で山鉾の組建てが行わ  れます。山鉾を出す町は、京都駅から北に伸びる烏丸(からすま)通の西側、  東西に伸びる四条通の北側と南側に集中しています。   今回は、烏丸四条西入に建てられていた「月鉾」を見学させていただきま  した。疫病災難除けの粽(ちまき)(千円)を買って町会所の中に入れても  らいました。 20090714gion (07).jpg   町会所の2階と鉾の上部とは、「橋掛  かり」と呼ばれる渡り廊下でつながれて  います。  20090714gion (08).jpg   山鉾は「動く世界の美術館」とも呼ばれるそうです。  山鉾の装飾には大変貴重なものが多く、月鉾はその代表的なものです。  天井周囲には丸山応挙の絵、左甚五郎作の彫刻、名工による飾り金具、周囲  を覆う絨毯は、前縣(前)と見送り(後ろ)が17世紀のペルシャ産、左右  の胴縣が18世紀のコーカサス産、等々、沢山の貴重な美術品、工芸品で飾  られています。        20090714gion (09).jpg   巡行する32基の山鉾のうち、鉾は9基、山は23基です。  山と鉾の主な違いは、多少の例外を除き、およそ次の通りです。   山=軽い(かつては肩に担いだ)、人は乗らない、(鉾)柱を立てない   鉾=重い(10トン前後)、人が乗る、鉾柱を立てる   山にも文化財として貴重なものが少なくありません。  「鯉山」(こいやま)もそのひとつです。鯉山は登竜門を象徴するもので、  左甚五郎作の鯉を祀って出世開運を祈願しています。  山の周囲を覆う壁掛けは、16世紀のベルギー産だそうです。   月鉾の絨毯も、鯉山の壁掛けも、元の生産地には製品が残っていない貴  重な品だそうです。 20090714gion (10).jpg 20090714gion (11).jpg 3.屏風祭   貴重な美術品の鑑賞は、屏風祭でも楽しませてもらえます。  山鉾を組建てる地域の旧家や老舗が、秘蔵している屏風や掛け軸などの美術  品を祭見物の人々に公開しています。通に面している部屋に美術品を展示し、  通を歩く人は自由に見学できます。 20090714gion (12).jpg 20090714gion (13).jpg   展示される品として屏風が多かったため、「屏風祭」と呼ばれるようにな  り、明治以降盛んになったそうです。  主として、烏丸通西側の南北の通である室町通、新川通などで見学すること  ができます。 20090714gion (14).jpg 20090714gion (15).jpg 4.祭の発祥   本稿は祇園祭の発祥にスポットを当ててみようとするものです。  そこで、発祥の時代背景を理解するため、当時の出来事をいくつか拾い上げ  てみましょう。    ■八坂神社創建   656年(斉明天皇2年)    ■長岡京遷都    784年(延暦3年)    ◆早良親王没    785年(延暦4年)    ■平安遷都     794年(延暦13年)    ◆崇道天皇尊称   800年(延暦9年)    ◆桓武天皇没    806年(延暦25年)    ●神泉苑で御霊会  863年(貞観5年)    ■御霊神社創建   863年(貞観5年)    ■崇道神社創建   859〜877年(貞観年間)    ●鉾を立てた御霊会 869年(貞観11年)     ◆菅原道真没    903年(延喜3年)    ■北野天満宮創建  947年(天暦元年)    ●祇園御霊会    970年(天禄元年)   この時代の人々は、怨霊や疫病を大変恐れていました。  祇園祭は、たたりや疫病の蔓延から逃れることを祈願して始まったようです。   各山・鉾に共通しているご利益は厄除けです。 5.崇道神社   崇道神社(すどうじんじゃ)は怨霊にまつわる代表的な神社と言えます。  崇道神社は京都市の北東にあります。京都市内から大原に向かって高野川沿  いに国道367号を走ると、左手に崇道神社があります。昼でも暗い鬱蒼と  した長い参道の奥に本殿があります。 20090707sudo (1).jpg ←崇道神社の参道  ↓ 20090707sudo (2).jpg   桓武天皇の実弟の早良親王(さわらしんのう)は、長岡京遷都から間もな  く起きた事件に連座したとして、死に追いやられました。その後桓武天皇の  近親者が相次いで亡くなったり、疫病が流行ったため、早良親王の怨霊によ  るものだと恐れられました。そこで、早良親王の怨霊を鎮めるため、「崇道  天皇」という尊称が発せられ、さらに都の鬼門にあたる地に崇道神社が創建  されたということです。祭神は崇道天皇(=早良親王)のみです。   崇道天皇は、後述する上御霊神社、下御霊神社でも祭神として祀られてい  ます。当時の人々がいかに怨霊を恐れていたか、ということが分かります。   ちなみに、少し時代が下って菅原道真が亡くなった後、都で落雷などが相  次いだため、怨霊を鎮めるために北野天満宮が創建されました。  「源氏物語」にも怨霊が登場しています。 6.神泉苑   二条城の南に、道路を隔てて神泉苑(しんせんえん)があります。  平安京が築かれた頃、御所は現在の御所よりも西、二条城の少し北西にあっ  たそうです。現在、千本丸太町の一角に「大極殿址」の碑が立っています。  (本稿の冒頭に掲げた地図をご参照ください)     当時の御所の南には、現在の二条城も含む広大な地域が天皇や貴族のため  の庭園として作られたそうです。現在、神泉苑として残っているのはごく一  部です。   ちなみに、この辺りは京都盆地の伏流水が豊富に湧いた沼地だったようで、  「御池通」の名は、ここに突き当たる道として名付けられたようです。   20090714gion (05).jpg ←御池通りに面している神泉苑  ↓御池に浮かぶ龍王船 20090714gion (06).jpg   この神泉苑で、怨霊(おんりょう)と疫病の退散を祈願する御霊会(ごり  ょうえ)が(863年に)行われました。多分、この御霊会と同時期に、御  霊神社(上御霊神社、下御霊神社)が創建されたようです。上/下両神社と  も、祭神のひとつとして崇道天皇を祀っておられます。     それから数年後(869年)、再び御霊会が催されました。  このときは神輿と矛66本(当時の国数)が送り込まれたそうです。  これが祇園祭の起原と言われているようです。   祇園祭は970年(天禄元年)からは毎年営まれようになり、998年  (長徳4年)からは山も出るようになったそうです。 7.八坂神社・疫神社   八坂神社は、四条通の東の突き当たりにあります。  南側の鳥居が正門です。参道の奥に南楼門があり、その奥に本殿があります。  本殿は入母屋造りで神社らしからず、お寺のような印象を受けます。   八坂神社(祇園社)の御祭神は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊−日本書紀)  ・クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)・ヤハシラノミコガミ(八柱御子  神)だそうです。   スサノヲノミコト(須佐之男命−古事記)は天照大神の弟で、ヤマタノオ  ロチを退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらした  英雄神だそうです。祟りや疫病を退散させるために、より強い神様を頼ると  ころから祇園社に信仰が集まったものと思われます。   先に述べた神泉苑での御霊会に、祇園社から神輿を送ったことが祇園祭の  始まりとなったようです。 20090714gion (01).jpg ←正面の鳥居  ↓入母屋造りの本殿 20090714gion (02).jpg   四条通を東に進むと、突き当たりに大きな朱塗りの門がそびえています。  ここが八坂神社の正面だ、と思い込んでいる人が多いかも知れませんが、こ  こは西楼門です。この門を潜ったほぼ正面に疫神社があります。 20090714gion (03).jpg ←西楼門  ↓疫神社 20090714gion (04).jpg   祭神は蘇民将来(そみんしょうらい)です。  疫神社は小さくてもその存在は大きいのですが、その訳は、次のような言い  伝えに依ります。(備後国風土記逸文)  「..武塔(むたふ)の~が宿を乞うたとき、裕福だった弟は断ったが、貧   乏だった兄の蘇民将来は泊めて丁重にもてなした。..そして、数年後   “吾は速須佐雄(はやすさのを)の~なり。後の世に疾氣(えやみ)あら   ば、汝、蘇民將來の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて、腰に着けたる人は免   れなむ。”と詔(の)りたまひき。」   つまり、茅の輪(ちのわ)を腰に着けて蘇民将来の子孫だと言えば疫病か  ら逃れることができる、とスサノヲノミコトが保証してくれたということで  す。こうして、疫病を逃れるために茅の輪くぐりが行われるようになったよ  うです。現代ならば、鳥インフルエンザや新型インフルエンザの蔓延を逃れ  たい、と祈願するようなものでしょう。      ちなみに、茅の輪をくぐる時には次のような言葉を唱えるようです。   (野洲市の御上神社(みかみじんじゃ)の場合)    1.水無月の夏越の祓いする人は 千年の命のぶといふなり    2.思ふ事みなつきねとて麻の葉を きりにきりても祓ひつるかな    3.蘇民将来 蘇民将来 (繰り返して唱える)   祇園祭には沢山の人が係わり、華やかな行事や目立たない神事などが1ヵ  月に亘って行われ、7月31日に、疫神社の夏越(なごし)祭をもって終了  します。   8.おわりに   京都の祇園祭の行事は、7月始めの(山鉾の巡行順位を決定する)籤取式  (くじとりしき)から始まり、7月31日の疫神社夏越祭をもって終わりま  す。疫神社の夏越(なごし)祭では、神社の鳥居に取り付けた大きな茅の輪  を参拝者がくぐります。   本稿をほぼ書き終えた今日(7月31日)夕方、NHK大津支局がまとめ  た滋賀版ニュースで、疫神社の夏越祭の様子が放映されました。写真に撮ら  せてもらおうと夜のニュース番組を待ち構えていましたが、再度の放送はな  く、残念なことをしました。   京都の三大祭としては・葵祭(5月)・祇園祭(7月)・時代祭(10月)  があります。歴史的には、祇園祭よりも葵祭の方が先輩です。  葵祭りは、平安遷都前から上賀茂神社で行われていた祭が始まりだそうです。  時代祭は、平安遷都千百年を祝い、平安神宮の造営と合わせて始まったそう  です。   野洲市の三上学区では「楽しく学ぶ歴史教室」が開かれています。  本稿は、その歴史教室を指導しておられる市木修先生の講義を基にしてまと  めたものであることを記し、先生に謝意を申し上げる次第です。                      (散策:2009年7月14日)                      (脱稿:2009年7月31日)  -----------------------------------------------------------------
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